三章[三章]食事をして戻ってくると7時を少し過ぎていた。 レストランといっても何でも作れるところしかなかったし、そこでは大抵どこの誰か判るので努めて友達を装っていた。 ウィスキーとビールとつまみ、そしてレストランで作って貰った唐揚げとサラダが僕の家のテーブルの上に並んだ。 僕はチョコレートをつまみながらウィスキーをストレートでやるのが好きだったので早速、それを始めたら森本は 「チョコレートが好きなんですねえ」と言った。 「久江も好きだったはずですよ」と言うと「僕の中では彼女がアルコールを飲むなんてイメージは全くないのです。 何ていうか、まだ子供のままの久江しか僕の中にはないのです」とはにかんだ表情で森本は言った。 「そうですか、それは失礼な事を言ってしまった。 だけど彼女も初めての時は鼻の上にシワを寄せて『聞くだけで気持ちが悪いわ、』と言いましたよ。 その顔を見て僕は意地悪をしてやろうと思ってチョコレートを袋の中から一掴み掴んで久江のかばんに入れて、 今晩10時になったら俺は家で一杯やるからお前もこれでウィスキーを一杯やれ、と言ったんです」 「それで彼女に平手打ちをかまされましたか」と森本は嬉しそうに聞いたのだが 「残念ですが困った顔して、ありがとうと言って帰りましたよ」と言ってやった。 森本はがっかりした様子で「で、彼女はそのチョコレートをどうしたのですか」と気にするので「どうしたと思います」と聞き返してやった。 森本は「梶さんから貰ったチョコレートですからねえ、食べずにずうっと持っていたとか、いや、家へ持って帰ったのだから、 えー、茶菓子にした」と上品な返事ばかりが返ってくるのでおかしくなりニヤニヤしていた。 森本はビールがほどよく回ってきたらしく、肩の力も抜けてきたのが僕にも判った。 僕も同じように肩の力が抜けていくのが判った。 どことなく暖かな雰囲気を持った男だなと、少し好感が持てるようになった。 森本は「教えて下さいよ」と言うので「聞かない方がいいんじゃないかな」と言ってやったら「梶さん、あんた随分意地悪ですねえ。 そうやって人をじらすのが好きなんですか。久江にもそうやって意地悪していたのでしょう」と言うので「聞いたら驚きますよ。 あなたの久江さんはかわいい少女のままの久江さんのようですから」と言ってやった。 「いいですよ。 もう、何を聞かせられても驚かないですよ。 あんなにかわいい女の子だった久江が男を追って来て会わずに自殺までして、この僕を驚かせたのですから」と すねたように森本は僕の顔を見て言った。 「帰りに酒屋に寄ってウィスキーを買って帰って早めに子供を寝かせて一人でウィスキーをやったというのです。 しかも僕が10時になったら一杯やるから、と言ったので『私も夕べは10時きっかりに飲み始めたのよ』と言うんです。 で、どうだったって聞いたら耳元で『おいしかった』って言ってほほを染めていましたよ」 「泣き虫で負けん気だけ強くても、そういうかわいい所があるのですねえ。あの子は」と言う森本の目は悲しげだった。 それだけでなく、もう一度僕の耳元で『ワタシ、思わずボトルを半分空けちゃった』と言うので僕は驚いて、お前、まさかストレートで、 と言うとケロッとっした顔で『ウンいけなかったかしら』と言った時には僕は内心大変な事を教えてしまったかなと思いましたよ」 「梶さん、それは大変な事を教えてしまいましたねえ。女は惚れたらのめり込みますよ。 アルコール依存症にまっしぐらですよ。 そんなの」 「いや、だから僕はあわててウィスキーのストレートはグラスに一杯だけにしておけ、と言いました」 「なるほど、グラスに一杯、ね。メチャクチャ大きなグラスでもグラスはグラスですからねえ、それもなみなみと注いで グラスに口を持って行かないとダメだったりして」と森本は体をゆすって嬉しそうに声を立てて笑った。 「どうです、森本さん、彼女がチョコレートをつまみにそんな格好でウィスキーを飲んでいる図を想像できますか」と言ってやったら 「いや、そういう事をしている久江は別の久江さんですよ」と返ってきた。 「ところで梶さん、彼女と一緒に仕事でもしていたのですか」と不意打ちを食らった感じで聞かれてしまった。 「ああ、しばらくアルバイトをしていた事がありましてね、彼女が勤めていた会社で一緒に仕事をしていました」 「偶然一緒になったのですか」と突っ込んできた。 さっきから少しづつ押され気味なのが少々不愉快になってきた。 「いや、彼女から電話がかかってきてバイトの人を募集しているから面接に来ないか、と言われて行ったんです。 求人募集を職安に出してきた、 と言っていたので会社へ行ったときには職安の紹介状を貰って行って偶然出会ったような振りをしました」 「へえ、あの子がねえ。そんな大胆な事が出来るんだ。でもどうして梶さんの電話番号を知っていたのかなあ」 僕は酔いも手伝ってとうとうしゃべってしまった。 「彼女の別れた亭主というのが僕のちょっとした知り合いだったもので、彼女が結婚してから電話をかけるようになったんですよ」 「それで亭主は知っていたのですか」 「いや、知らなかったでしょう。別の人の事でデッチ挙げされて慰謝料は貰えなかったって言ってましたから。 『あれ、誰なんだろう』って首をかしげていましたねえ」 「名前は聞かなかったのですか」 「尋ねましたが、もういいの、と言って教えてくれませんでした」 「ひどい話だなあ。 久江にそんな事できるかなあ」 僕はおかしくて思わず笑ってしまった。 目の前にいる男といくらプラトニックだったといっても亭主以外の男に恋していたじゃないかと思うと本当におかしかった。 森本は僕の笑いに気がついたらしく「梶さん、あんたは本当に悪い人だ」と睨んで言った。 そして真面目くさった顔になって「でも、今日は来てよかった。あなたに会えて。あなたに会えなかったら僕の中の久江は いじめられて、悲しく寂しいまま死んで行ったと生涯思い込んでいたでしょうねえ。あなたのような人ともっと早く出会っていたら 幸せにして貰えていたのに。でも彼女はそれなりに幸せな時があったのですね。今日は彼女が二人を引き合わせたのでしょう。 お互いに知らない所を教えあってね、って言ってるみたいで」 「そうですねえ、あの時間がもし、ずれていたら会えなかったと思うと。きっと久江が呼んだのでしょう。僕がたまたま、 よい天気に釣られて歩いて行ったというのもそういう事なのでしょう」 「しかし梶さん、謎は三つありますよ。 彼女は何故、人が変わってしまったのかという謎と、何故15年、25年も連絡のなかった僕達に 死ぬ半月前に電話をして来たか、そして何故ここまで来ていながら梶さんに会わずに死んだのか、あの日の前後は留守にされませんでしたか」 「いや、留守にはしませんでした。何故なら、作品を焼く為に窯に入れていたのですから。 もう火をいれようかと思ったところへお巡りさんがバイクで飛んで来て、ちょっと本人の確認をしてくれ、君宛の遺書を携えた女の人が 死んでいる、と言ったのでそのまま僕も飛んで行きました。作品を全部入れ終わっていたのと、火入れがまだだったのが不幸中の幸いで被害はありませんでした。 火を入れてしまっていたら窯から離れられないところでした」 「それは良かったですねえ。 でもそんな風に聞くと久江がちょっとかわいそうです。 これが映画や小説の中だったら、作品も何もかも放り出して駆けつけるのでしょう。そうでないとドラマチックな物語にならない。 でも実際には生活があって作品を仕上げて生活費を稼がなくてはならない。という事実を突きつけられる。 梶さんの場合、作品は日にち遅れで仕上げたけれど、口さがない人の噂でキズ付けられる」 「僕に邪険にされて死んだという風になっているのですか。僕は初耳です。まあ、往々にして本人の耳には入らないものですけど」 「これはすごいメロドラマですよ。梶さん。陶芸家と人妻の恋、ちょっと古いですねえ。止めましょう」 大分酔いも回ってきて僕達はゴロ寝をしたり、足を投げ出したり、とすっかりくつろぐまでに打ち解けていた。 四章へ |